縷衣香さんの個展が始まりました!
2011.12.19(月) ~ 12.27(火) まで
啓祐堂ギャラリー にて
〒108-0074 東京都港区高輪3-9-8 高輪インターコート1F
TEL / FAX03-3473-3255 営業時間14:00~19:00
定休日毎週水曜日・隔週木曜日・夏季・年末年始(お問い合わせ下さい)
交通: 都営地下鉄 浅草線 高輪台駅 下車 A1出口徒歩3分
JR品川駅下車 高輪口 徒歩10分
首都圏在住の皆さま、どなたかご一緒しませんか~?
わたくしは、26日の午後(夕方頃?)に伺おうと思っています。
アートを鑑賞した後は、ぷち忘年会で楽しい語らいを是非ご一緒に!
縷衣香さんのブログ “ 縷衣香NOW!! ” より、ご経歴をコピーさせていただきました。(以下引用です)
経歴
1947年10月27日名古屋生まれ
1969年3月、女子美術大学産業デザイン科グラフィック専攻在学中、20歳の4月7日、「愛と真理と美に生きよ」と天のお告げを聴く。以降、既成の概念との厳しい闘いが始まる。時には授業を受けることを教授から拒否される。
在学中、「モダンアート展」入選。審査員のセクハラ行為により以降出展せず。
在学中、日本橋「白木屋」で大学イラスト展出展した自動書記アートを上講師より「豪華で新鮮!」と評価。
1971年12月から1月の2週間、西武デパートのマイ・ギャラリーで個展。
雅号を「流異」と命名。世の流れと異なって生きるという意味。
1972年6月、自由が丘ギャラリー・オークションで「おみくじ版画」を発表。
12月、京橋、プリント・アートギャラリー、「名あるもの形あるものが信じられなくて占いを版画にしてみました」個展。 毎日デイリー・ニュースに写真入りでアリタ・フェルドマン女史の批評が記載される。
1973年10月、銀座、村松画廊で「不思議な国の流異香展」。公明新聞に記事。
1974年1月、新宿、花園ぬれ納豆、正月カレンダーにアリス・カード使用。
7月、銀座、シロタギャラリーで「広島、長崎、私の傷。マリア、イエス、私の涙」展。
「月刊ヤングロード」誌に毎月、現代詩のイラストを描く。天沢退二朗、加藤郁乎、白石かずこなど。
後に秋田の聖体奉仕会の木像の聖母像から血と涙がでたこととシンクロしていたことを知る。
「美術手帖」にたにあらた氏の展評が記載。
1975年6月、日本橋、真木画廊にて「OKARUTTA」展。オカルトとカルタの山岸氏の命名。
「週刊朝日」の「ひと欄」に記載され、翌日出版社からの電話で日本商業社より「易カルタ」出版。
1976年1月、日本橋、田村画廊にて「あそびえ展」。「美術手帖」展覧会案内に記載。
ホテル・オークラ内「フランネル画廊」にて、豆団扇販売される。
1977年1月25日、「日本経済新聞」文化欄「易カルタで天の声を聞く」記載。
アンアン誌、ノンノ誌など50か所に「易カルタ」記事記載される。
1月、「クイン社」より年賀はがき出版。400万枚売れる。ポチ袋、サイン帳など出版される。
4月、「因果な嫁業」流異香著出版。
4月、バドル・ソドル読唱会 おおえまさのり「チベット死者の書」。小杉武久タージマハル・トラベラーズのポスター。
8月、銀座、藍画廊で、「Magia Inventrix(魔術的発明)」展。
フィンランドの大使夫人より「日本御伽草子」26話の挿絵を依頼され、墨絵で26点描く。フィンランドにて、数話紹介。
8月、銀座、ギャラリー吾八より私家版豆本を販売。「平安絵巻」「千鳥姫」「闇姫」「妖姫」「豆姫」など7種それぞれ限定100部。
1978年3月、京都、紙泉堂ギャラリー「因果律の歌はやさしく流れる」展。「桜咲く 大日本ぞ 日本ぞ 一茶」の俳句を始め芭蕉、蕪村、山頭火の俳画を主に出展。
京都印刷より1980年度のカレンダーを依頼される。西陣織の紋紙に豆本から絵を選ぶ「平安絵巻」。
1979年1月、南青山辰村組マンション704号室にて、青少年のための浄化塾主催。毎日塾。
4月、大阪、本町、うつほギャラリーにて「メビウスのからくり世界」展。2階にて「霊的談話サロン」。
5月、京都、天橋立、知恩院住職より「フランスのルルドにいきなさい」と寄金。浄化塾解散。
6月、ローマの「宗教と科学」の国際会議に参加。以降トルコ、ギリシャ、イタリア、スイスを経てパリに入る。
8月15日、フランス、ルルドの「聖べルナデッタ百年祭」に行く。
母親から「今年は台風が凄いからそのままパリにいるよう」に指示されパリに住む。(現実に私の部屋のベッドに台風は直撃したので命拾いしたのかもしれない。台所にいた母親は、円形に並んでいた食器棚が飛び、たまたま身をかがめて食器を片づけて無事だったが、前の家の屋根の一部が直撃したのである。ガラスは全部破損。)
8月、「日本神学」誌に毎月、記事を連載。18か月にわたり、ルポして記事を日本に送った。月20枚の原稿を書く。
日本と海外から浄化塾生がパリに来てしまったので、インターナショナル浄化塾として運営続行。
聖母マリアの出現地訪問と北欧まで美術館巡りをする。
1980年 1月、「平安カレンダー」はよく売れ、売上全額をパリノパト・カトリックセンターに寄付。
1981年 ニューヨーク、サンフランシスコを経由して帰国。確かジョンレノンの死をロスアンジェルスで聞いた気がする。
カトリックの洗礼後、青梅の児童福祉施設「天使園」でボランティア。塾生も参加。
1982年9月から「イエルサレム巡礼を経てバチカンで聖コルベ神父の列聖式に出て、ツアーから離れパリで1週間延期滞在。
雅号を「流異香」から「縷衣香」に変える。体制に抗うのではなく細い糸のように静かに存在し続けることにした。
1983年2月11日のルルドの祝日の婚約式を経て、5月の三位一体の祝日に結婚。
引き出物は「聖母子像」のシルク・スクリーン版画。
1984年 娘の出産前後1年かけて「百人一首」の原画を描く。神楽坂「赤い馬」経営者の金子美智子氏からの依頼。ほぼ1日1枚で計読み札と取り札で200枚の古色紙大。実家に泊まり、母親に赤子のお守を助けてもらいながら、主人は毎晩通い夕飯を一緒にした。
11月から信濃町、上智大学の修道会女子寮(犬養美智子旧邸)。で赤子を連れてフランス語を習いに通う。修道女が2時間1000円で幼児を看てくれていた。
12月、銀座、藍画廊で「百人一首原画展」。
1985年、百人一首出版。
1986年4月、娘を連れて個展をしにパリに行く。10か月のパリ滞在中、「百人一首」がインターナショナル名誉総裁である美智子妃の謝礼贈り物に選ばれ、姑が水引をかけて皇居に運ぶ。
10月、「ジュンク堂」ギャラリーで個展。実家の母と姑が駆けつけてくれる。パリのユネスコの方とパリの「かるた美術 館」に百人一首買いあげられる。後にボストンからパリに行って美術館を訪れたら、「百人一首」は常設されていた。
1999年にヨーロッパの優秀美術館として表彰された美術館です。ロダン、マチス、デュ・ビッフェの部屋があり、彼らは 近くに住んでいたので侯爵がたくさん作品を買ったということだ。美術館は侯爵の城を半分はそのまま、半分は現代建築の4階建ての素敵な建築です。滞在中はNoisy- le -Grandの建築賞を受賞した「レジデンス昔々」に住む。
帰国後、4年保育の幼稚園に姑に従順に子を入園させたところ、幼稚園の卑劣な児童の存在に精神的ショックで私が2年間、間歩けなくなり寝込む。
幼稚園を2年保育の所属教会に変えて以降、子育てに集中。所属教会の目黒アンセルモ教会に毎年和紙コラージュ を毎月を修道女に求められるまま2年間毎月献納。
姑に逆らえず、自分の哲学に反した罰で倒れた私は、大きな使命のために譲らぬ教育をする決意で同居しつつも「強くならねば」と決意。それで、ようやく歩けるようになった。子供のために寝てはいられないと思ったのである。
1993年長崎、コンヴェンツアル・フランシスコ会の修道士から聖コルベ神父のアウシュビッツ殉教50年記念に絵を納めるよう修道士に依頼され、80号の油彩を贈る。母と娘と長崎まで行く。聖コルベ神父が使っていた部屋の壁(ゼノ修道士が作った)に絵が展示してあり感動。下のガラス・ケースには遠藤周作の「沈黙」の生原稿が展示してあり、他の部屋には蟻の街のマリアと言われた北原玲子さんのお習字などが展示してあった。
1995年3月に家族3人でアメリカ、ボストンに移住。到着後、ホテルのテレビで「地下鉄サリンガス事件」を知る。 初めてのボストンでのカトリックミサでは、日本の阪神大地震のために祈っていた。
子の現地の公立小学校で初めての教科書が「サダコ」。広島に原爆体験をしたサダ子と千羽鶴の物語。体育の授業は「サダ子と千羽鶴」のダンス。戦後50周年の日米の企画で広島のサダコ像の前で、選ばれた日米の子供たちが踊るダンスである。発表会では、反物をひらひらさせて、大田川を表現していた。次はアンダーグランドで南部の黒人を救って北部に逃げさせたクエーカー教徒の話で、3番目は「日本収容所」の話で日系作家の体験で太平洋戦争時に日本人が馬小屋に入れられ、
仲良かったアメリカの女の子と離れる話。
英語を学びつつ、ハーバート大学のサマースクールでデッサンや油彩を習う。
求められるまま、正規の授業とボランティアで小学生に「俳句と俳画。折り紙。百人一首と自分の好きな人の言葉と似顔絵を制作指導。」中学生には「油彩」。大人には「張り子」「和紙づくり」「墨絵」「和綴じ本」など教える。
ハーバート大学アジア大会では「百人一首」のプレゼンテーション。
ハーバート大学内のアート・フェアでは「墨絵のデモストレーション」や生徒たちとグループ展。
私もハーバート大やボストン美術館付属学校などで、デッサン、油彩、テンペラ画、パフォーマンス、インスタレーション、陶芸を学ぶ。テンペラ画では半年助手として働きました。 4年間でポスト・バカロレアコース、ディプロマ・コース、5th yearの3コースを卒業しました。油彩はジャノビッツ師で3年かけてキャンバスを張り、油絵の具を並べるところから学べたのは幸いだった。彼はハーバート大のカーペンター・センター(アメリカにある唯一のコルビジェ建築)で授業を受けるように手配してくれた恩人です。ポール・ストップス師はそこでデッサンを教えてくれたのですが南アフリカのアパルトヘイトに反発し亡命したホワイト・アフリカンでデッサンはもちろん素晴らしいのですが、思想的に人権を描くということを学んだ大恩人です。毎日の授業が真剣に打ちこめて、今、思うともっとも幸せな時だった気がする。
1998年6月 ヴェネチア・スタディズ3週間参加。
1999年2月GROSSMAN GALLERY「Lovely Coffins」。彫刻ショー。棺桶「ホワイトハウス」と「万里の長城」を出品。
2001年4月、卒業制作に「100 lovely coffins and One empty cradle」発表しました。人類は神の前に跪いて謙虚に自分たちの罪を省みようという趣旨。不思議なことがたくさんあって、奨学金を得て行けたバルセロナのガウディのカーサミラの家に飾ってあったドールハウスの祈り部屋の祈り椅子を拡大して作ろうとデッサンしたのだが、椅子を作ったもののなかなか大変なのであった。それで、ボストンの骨とう品屋さんに尋ねたら「イタリアかスペインかフランスにしかない。」というのです。 現代的なデザインは教会にあったのですが、雰囲気がだいぶ違うのです。あるときにフランスに行くと、スーツケースがなくなり、帰りのボストンエアポートで発見され、弁償の格安のチケットを発券してくれたのでもう1度行ったときにあり展示会を観ようと知らぬ街で探していて、ふと後ろを振り返ると「祈り椅子」がドールハウスのものと瓜二つの実物大のものが蚤の市で売られていたのでした。売り主のおばあさんの使用したもので埃がたくさん 出ていましたが、張り替えて、今は神山にある。
そうして、人類の救済には祈りと空の揺り籠と100の象徴的な罪を埋めた陶器の棺桶100を2年間かけて制作したのです。
2001年の9月11日にニューヨークで世界貿易センターのビルが2機の飛行機の追突で崩壊された事件の予言となったのでした。
卒業後1年間はバスケット制作を学んでいました。3人の先生に段階的に学んだのですけど、最後は全米トップ4に入るナンタケット島のキャロルに師事。
2003年7年間にわたるアメリカ滞在より帰国。
9月、ハーバート・ネ―バースにて個展。主にバスケット。「Happy Weaving!」
Happy Weavingの英詩はPeople Treeのフェア・トレードの趣旨にあっているらしくインターネットに記載される。
2004年9月バロセロナ「市民のための革新の力となるボランティア活動」IAVE世界会議参加。ゴッホの追跡旅行。
11月スペイン、姑と「カミーノ巡礼」。
2005年5月、銀座教会ギャラリーアガペー、ギャラリービスティスにて個展「希望の春」。
「I・A ・V・E」よりグリーティング・カード4種出版。(International Association of Volunteer Effort 略)
カードを作ったときに宇津保物語は絵本にすべきといわれ、墨絵を足した。
10月、銀座、G2ギャラリーにて個展「宇津保物語原画展」「宇津保物語絵本」而立書房より出版。英語、口語。
2006年1月、銀座「サロン・デ・縷衣香」アンパンマン表紙のビッグ・イッシューに「ホームレスのお姫さま、宇津保物語」
記載される。
12月、たま出版より「マリア・コード」出版。
12月、白金、ギャラリー「くれあ」で個展「マリア・コード」クリスマス・バスケットを3点発表。
「地震が起こらないようにグループで祈っている。病人も医術だけでは治らない。祈りが必要だ。
あなたのような人は本を書くべき」と2度も展示会に来て言ってくださった能見医師に応えて。
2007年4月、ブログ「縷衣香NOW」を書き始める。
4月17日第2回「まめまつり」参加。(豆本)
5月、三渓クルーズ。世界遺産張家界と武陵源。重慶の墨絵作家と友人になる。後に扇子を贈ってくれる。
7月,銀座、ギャラリー、GK「文月のアーティスト展」
8月、「コノハナサクヤヒメ物語」を而立書房より出版。英語、口語。
8月11日「蚊帳教会」1泊インスタレーション・イベント 北軽井沢、ドームパラダイスにて。
9月17日四谷、石響、「展覧会のマリンバ」「宇津保物語」に吉岡孝悦が作曲。
10月都立大学 「グラナダ展」。
11月、桂林旅行。
2008年6月「クロアチア。スロヴェニア、メジュゴリエ巡礼の旅」公式カトリック第一次巡礼団。
8月から2月、渋谷、松濤画廊喫茶「パンの木」で個展。
9月23日秋分の日にテレビ朝日の「ちい散歩」で放映。
母が近くの病院に入院中なので通いやすかった。
9月16日「展覧会のマリンバ」
10月12日、13日「豆本フェスタ」お茶ノ水「東京古書会館」
2009年3月、「絵本二十四孝物語」而立書房から出版。中国語、口語。
3月G2ギャラリー「絵本二十四孝物語 原画展」
4月、「絵本二十四孝物語」YOU TUBE。
5月IAVE北京ボランティア視察旅行。芸術村798を訪問。
7月 神山コテージ建設。
8月11日「蚊帳教会」1泊インスタレーション・イベント 野尻、神山。
9月、竹の廃物利用の竹紙で団扇を作る。
10月、黄山旅行。中国の墨絵作家と会う。
2010年3月、アイルランドのノック巡礼。アイスランドの火山爆発のため、イギリスに6日間延長滞在。ストーンヘンジやテート・モダンでゴーキ展を観たのは収穫。
8月11日「蚊帳教会」1泊インスタレーション・イベント 野尻、神山。
8月12日、「彦坂尚嘉が縷衣香さんのバスケットを見る」YOU TUBE
9月「蚊帳教会」YOU TUBE。
2011年1月大崎「夢のイストワール展」O美術館「雪の聖母」出展。「蚊帳教会」ビデオも上映。
2月12日「Invisible flying church」YOU TUBE。「蚊帳教会」の英語版。
4月27日、3月「Rebirth from lovely coffins 」YOU TUBE.
(3月6日、7日、8日に神山で撮影したビデオ。)「再生」というタイトルは3月5日に発表した焦げたバスケットから花が咲くのと麦やキノコが出る作品をすでにつけていた。3.11の予言となる作品。棺桶はボストンで作ったのもので、雪の中でキャンドルに灯をともし、やがて雪に埋もれるものまで縷衣香自身の撮影。
8月、長野「ちょっくら おいらい館」で絵本展示。
12月、高輪、ギャラリー啓祐堂「森の精霊 神山からのメッセージ」展
~ 引用終わり ~
啓祐堂ギャラリー にて
〒108-0074 東京都港区高輪3-9-8 高輪インターコート1F
TEL / FAX03-3473-3255 営業時間14:00~19:00
定休日毎週水曜日・隔週木曜日・夏季・年末年始(お問い合わせ下さい)
交通: 都営地下鉄 浅草線 高輪台駅 下車 A1出口徒歩3分
JR品川駅下車 高輪口 徒歩10分
わたくしは、26日の午後(夕方頃?)に伺おうと思っています。
アートを鑑賞した後は、ぷち忘年会で楽しい語らいを是非ご一緒に!
経歴
1947年10月27日名古屋生まれ
1969年3月、女子美術大学産業デザイン科グラフィック専攻在学中、20歳の4月7日、「愛と真理と美に生きよ」と天のお告げを聴く。以降、既成の概念との厳しい闘いが始まる。時には授業を受けることを教授から拒否される。
在学中、「モダンアート展」入選。審査員のセクハラ行為により以降出展せず。
在学中、日本橋「白木屋」で大学イラスト展出展した自動書記アートを上講師より「豪華で新鮮!」と評価。
1971年12月から1月の2週間、西武デパートのマイ・ギャラリーで個展。
雅号を「流異」と命名。世の流れと異なって生きるという意味。
1972年6月、自由が丘ギャラリー・オークションで「おみくじ版画」を発表。
12月、京橋、プリント・アートギャラリー、「名あるもの形あるものが信じられなくて占いを版画にしてみました」個展。 毎日デイリー・ニュースに写真入りでアリタ・フェルドマン女史の批評が記載される。
1973年10月、銀座、村松画廊で「不思議な国の流異香展」。公明新聞に記事。
1974年1月、新宿、花園ぬれ納豆、正月カレンダーにアリス・カード使用。
7月、銀座、シロタギャラリーで「広島、長崎、私の傷。マリア、イエス、私の涙」展。
「月刊ヤングロード」誌に毎月、現代詩のイラストを描く。天沢退二朗、加藤郁乎、白石かずこなど。
後に秋田の聖体奉仕会の木像の聖母像から血と涙がでたこととシンクロしていたことを知る。
「美術手帖」にたにあらた氏の展評が記載。
1975年6月、日本橋、真木画廊にて「OKARUTTA」展。オカルトとカルタの山岸氏の命名。
「週刊朝日」の「ひと欄」に記載され、翌日出版社からの電話で日本商業社より「易カルタ」出版。
1976年1月、日本橋、田村画廊にて「あそびえ展」。「美術手帖」展覧会案内に記載。
ホテル・オークラ内「フランネル画廊」にて、豆団扇販売される。
1977年1月25日、「日本経済新聞」文化欄「易カルタで天の声を聞く」記載。
アンアン誌、ノンノ誌など50か所に「易カルタ」記事記載される。
1月、「クイン社」より年賀はがき出版。400万枚売れる。ポチ袋、サイン帳など出版される。
4月、「因果な嫁業」流異香著出版。
4月、バドル・ソドル読唱会 おおえまさのり「チベット死者の書」。小杉武久タージマハル・トラベラーズのポスター。
8月、銀座、藍画廊で、「Magia Inventrix(魔術的発明)」展。
フィンランドの大使夫人より「日本御伽草子」26話の挿絵を依頼され、墨絵で26点描く。フィンランドにて、数話紹介。
8月、銀座、ギャラリー吾八より私家版豆本を販売。「平安絵巻」「千鳥姫」「闇姫」「妖姫」「豆姫」など7種それぞれ限定100部。
1978年3月、京都、紙泉堂ギャラリー「因果律の歌はやさしく流れる」展。「桜咲く 大日本ぞ 日本ぞ 一茶」の俳句を始め芭蕉、蕪村、山頭火の俳画を主に出展。
京都印刷より1980年度のカレンダーを依頼される。西陣織の紋紙に豆本から絵を選ぶ「平安絵巻」。
1979年1月、南青山辰村組マンション704号室にて、青少年のための浄化塾主催。毎日塾。
4月、大阪、本町、うつほギャラリーにて「メビウスのからくり世界」展。2階にて「霊的談話サロン」。
5月、京都、天橋立、知恩院住職より「フランスのルルドにいきなさい」と寄金。浄化塾解散。
6月、ローマの「宗教と科学」の国際会議に参加。以降トルコ、ギリシャ、イタリア、スイスを経てパリに入る。
8月15日、フランス、ルルドの「聖べルナデッタ百年祭」に行く。
母親から「今年は台風が凄いからそのままパリにいるよう」に指示されパリに住む。(現実に私の部屋のベッドに台風は直撃したので命拾いしたのかもしれない。台所にいた母親は、円形に並んでいた食器棚が飛び、たまたま身をかがめて食器を片づけて無事だったが、前の家の屋根の一部が直撃したのである。ガラスは全部破損。)
8月、「日本神学」誌に毎月、記事を連載。18か月にわたり、ルポして記事を日本に送った。月20枚の原稿を書く。
日本と海外から浄化塾生がパリに来てしまったので、インターナショナル浄化塾として運営続行。
聖母マリアの出現地訪問と北欧まで美術館巡りをする。
1980年 1月、「平安カレンダー」はよく売れ、売上全額をパリノパト・カトリックセンターに寄付。
1981年 ニューヨーク、サンフランシスコを経由して帰国。確かジョンレノンの死をロスアンジェルスで聞いた気がする。
カトリックの洗礼後、青梅の児童福祉施設「天使園」でボランティア。塾生も参加。
1982年9月から「イエルサレム巡礼を経てバチカンで聖コルベ神父の列聖式に出て、ツアーから離れパリで1週間延期滞在。
雅号を「流異香」から「縷衣香」に変える。体制に抗うのではなく細い糸のように静かに存在し続けることにした。
1983年2月11日のルルドの祝日の婚約式を経て、5月の三位一体の祝日に結婚。
引き出物は「聖母子像」のシルク・スクリーン版画。
1984年 娘の出産前後1年かけて「百人一首」の原画を描く。神楽坂「赤い馬」経営者の金子美智子氏からの依頼。ほぼ1日1枚で計読み札と取り札で200枚の古色紙大。実家に泊まり、母親に赤子のお守を助けてもらいながら、主人は毎晩通い夕飯を一緒にした。
11月から信濃町、上智大学の修道会女子寮(犬養美智子旧邸)。で赤子を連れてフランス語を習いに通う。修道女が2時間1000円で幼児を看てくれていた。
12月、銀座、藍画廊で「百人一首原画展」。
1985年、百人一首出版。
1986年4月、娘を連れて個展をしにパリに行く。10か月のパリ滞在中、「百人一首」がインターナショナル名誉総裁である美智子妃の謝礼贈り物に選ばれ、姑が水引をかけて皇居に運ぶ。
10月、「ジュンク堂」ギャラリーで個展。実家の母と姑が駆けつけてくれる。パリのユネスコの方とパリの「かるた美術 館」に百人一首買いあげられる。後にボストンからパリに行って美術館を訪れたら、「百人一首」は常設されていた。
1999年にヨーロッパの優秀美術館として表彰された美術館です。ロダン、マチス、デュ・ビッフェの部屋があり、彼らは 近くに住んでいたので侯爵がたくさん作品を買ったということだ。美術館は侯爵の城を半分はそのまま、半分は現代建築の4階建ての素敵な建築です。滞在中はNoisy- le -Grandの建築賞を受賞した「レジデンス昔々」に住む。
帰国後、4年保育の幼稚園に姑に従順に子を入園させたところ、幼稚園の卑劣な児童の存在に精神的ショックで私が2年間、間歩けなくなり寝込む。
幼稚園を2年保育の所属教会に変えて以降、子育てに集中。所属教会の目黒アンセルモ教会に毎年和紙コラージュ を毎月を修道女に求められるまま2年間毎月献納。
姑に逆らえず、自分の哲学に反した罰で倒れた私は、大きな使命のために譲らぬ教育をする決意で同居しつつも「強くならねば」と決意。それで、ようやく歩けるようになった。子供のために寝てはいられないと思ったのである。
1993年長崎、コンヴェンツアル・フランシスコ会の修道士から聖コルベ神父のアウシュビッツ殉教50年記念に絵を納めるよう修道士に依頼され、80号の油彩を贈る。母と娘と長崎まで行く。聖コルベ神父が使っていた部屋の壁(ゼノ修道士が作った)に絵が展示してあり感動。下のガラス・ケースには遠藤周作の「沈黙」の生原稿が展示してあり、他の部屋には蟻の街のマリアと言われた北原玲子さんのお習字などが展示してあった。
1995年3月に家族3人でアメリカ、ボストンに移住。到着後、ホテルのテレビで「地下鉄サリンガス事件」を知る。 初めてのボストンでのカトリックミサでは、日本の阪神大地震のために祈っていた。
子の現地の公立小学校で初めての教科書が「サダコ」。広島に原爆体験をしたサダ子と千羽鶴の物語。体育の授業は「サダ子と千羽鶴」のダンス。戦後50周年の日米の企画で広島のサダコ像の前で、選ばれた日米の子供たちが踊るダンスである。発表会では、反物をひらひらさせて、大田川を表現していた。次はアンダーグランドで南部の黒人を救って北部に逃げさせたクエーカー教徒の話で、3番目は「日本収容所」の話で日系作家の体験で太平洋戦争時に日本人が馬小屋に入れられ、
仲良かったアメリカの女の子と離れる話。
英語を学びつつ、ハーバート大学のサマースクールでデッサンや油彩を習う。
求められるまま、正規の授業とボランティアで小学生に「俳句と俳画。折り紙。百人一首と自分の好きな人の言葉と似顔絵を制作指導。」中学生には「油彩」。大人には「張り子」「和紙づくり」「墨絵」「和綴じ本」など教える。
ハーバート大学アジア大会では「百人一首」のプレゼンテーション。
ハーバート大学内のアート・フェアでは「墨絵のデモストレーション」や生徒たちとグループ展。
私もハーバート大やボストン美術館付属学校などで、デッサン、油彩、テンペラ画、パフォーマンス、インスタレーション、陶芸を学ぶ。テンペラ画では半年助手として働きました。 4年間でポスト・バカロレアコース、ディプロマ・コース、5th yearの3コースを卒業しました。油彩はジャノビッツ師で3年かけてキャンバスを張り、油絵の具を並べるところから学べたのは幸いだった。彼はハーバート大のカーペンター・センター(アメリカにある唯一のコルビジェ建築)で授業を受けるように手配してくれた恩人です。ポール・ストップス師はそこでデッサンを教えてくれたのですが南アフリカのアパルトヘイトに反発し亡命したホワイト・アフリカンでデッサンはもちろん素晴らしいのですが、思想的に人権を描くということを学んだ大恩人です。毎日の授業が真剣に打ちこめて、今、思うともっとも幸せな時だった気がする。
1998年6月 ヴェネチア・スタディズ3週間参加。
1999年2月GROSSMAN GALLERY「Lovely Coffins」。彫刻ショー。棺桶「ホワイトハウス」と「万里の長城」を出品。
2001年4月、卒業制作に「100 lovely coffins and One empty cradle」発表しました。人類は神の前に跪いて謙虚に自分たちの罪を省みようという趣旨。不思議なことがたくさんあって、奨学金を得て行けたバルセロナのガウディのカーサミラの家に飾ってあったドールハウスの祈り部屋の祈り椅子を拡大して作ろうとデッサンしたのだが、椅子を作ったもののなかなか大変なのであった。それで、ボストンの骨とう品屋さんに尋ねたら「イタリアかスペインかフランスにしかない。」というのです。 現代的なデザインは教会にあったのですが、雰囲気がだいぶ違うのです。あるときにフランスに行くと、スーツケースがなくなり、帰りのボストンエアポートで発見され、弁償の格安のチケットを発券してくれたのでもう1度行ったときにあり展示会を観ようと知らぬ街で探していて、ふと後ろを振り返ると「祈り椅子」がドールハウスのものと瓜二つの実物大のものが蚤の市で売られていたのでした。売り主のおばあさんの使用したもので埃がたくさん 出ていましたが、張り替えて、今は神山にある。
そうして、人類の救済には祈りと空の揺り籠と100の象徴的な罪を埋めた陶器の棺桶100を2年間かけて制作したのです。
2001年の9月11日にニューヨークで世界貿易センターのビルが2機の飛行機の追突で崩壊された事件の予言となったのでした。
卒業後1年間はバスケット制作を学んでいました。3人の先生に段階的に学んだのですけど、最後は全米トップ4に入るナンタケット島のキャロルに師事。
2003年7年間にわたるアメリカ滞在より帰国。
9月、ハーバート・ネ―バースにて個展。主にバスケット。「Happy Weaving!」
Happy Weavingの英詩はPeople Treeのフェア・トレードの趣旨にあっているらしくインターネットに記載される。
2004年9月バロセロナ「市民のための革新の力となるボランティア活動」IAVE世界会議参加。ゴッホの追跡旅行。
11月スペイン、姑と「カミーノ巡礼」。
2005年5月、銀座教会ギャラリーアガペー、ギャラリービスティスにて個展「希望の春」。
「I・A ・V・E」よりグリーティング・カード4種出版。(International Association of Volunteer Effort 略)
カードを作ったときに宇津保物語は絵本にすべきといわれ、墨絵を足した。
10月、銀座、G2ギャラリーにて個展「宇津保物語原画展」「宇津保物語絵本」而立書房より出版。英語、口語。
2006年1月、銀座「サロン・デ・縷衣香」アンパンマン表紙のビッグ・イッシューに「ホームレスのお姫さま、宇津保物語」
記載される。
12月、たま出版より「マリア・コード」出版。
12月、白金、ギャラリー「くれあ」で個展「マリア・コード」クリスマス・バスケットを3点発表。
「地震が起こらないようにグループで祈っている。病人も医術だけでは治らない。祈りが必要だ。
あなたのような人は本を書くべき」と2度も展示会に来て言ってくださった能見医師に応えて。
2007年4月、ブログ「縷衣香NOW」を書き始める。
4月17日第2回「まめまつり」参加。(豆本)
5月、三渓クルーズ。世界遺産張家界と武陵源。重慶の墨絵作家と友人になる。後に扇子を贈ってくれる。
7月,銀座、ギャラリー、GK「文月のアーティスト展」
8月、「コノハナサクヤヒメ物語」を而立書房より出版。英語、口語。
8月11日「蚊帳教会」1泊インスタレーション・イベント 北軽井沢、ドームパラダイスにて。
9月17日四谷、石響、「展覧会のマリンバ」「宇津保物語」に吉岡孝悦が作曲。
10月都立大学 「グラナダ展」。
11月、桂林旅行。
2008年6月「クロアチア。スロヴェニア、メジュゴリエ巡礼の旅」公式カトリック第一次巡礼団。
8月から2月、渋谷、松濤画廊喫茶「パンの木」で個展。
9月23日秋分の日にテレビ朝日の「ちい散歩」で放映。
母が近くの病院に入院中なので通いやすかった。
9月16日「展覧会のマリンバ」
10月12日、13日「豆本フェスタ」お茶ノ水「東京古書会館」
2009年3月、「絵本二十四孝物語」而立書房から出版。中国語、口語。
3月G2ギャラリー「絵本二十四孝物語 原画展」
4月、「絵本二十四孝物語」YOU TUBE。
5月IAVE北京ボランティア視察旅行。芸術村798を訪問。
7月 神山コテージ建設。
8月11日「蚊帳教会」1泊インスタレーション・イベント 野尻、神山。
9月、竹の廃物利用の竹紙で団扇を作る。
10月、黄山旅行。中国の墨絵作家と会う。
2010年3月、アイルランドのノック巡礼。アイスランドの火山爆発のため、イギリスに6日間延長滞在。ストーンヘンジやテート・モダンでゴーキ展を観たのは収穫。
8月11日「蚊帳教会」1泊インスタレーション・イベント 野尻、神山。
8月12日、「彦坂尚嘉が縷衣香さんのバスケットを見る」YOU TUBE
9月「蚊帳教会」YOU TUBE。
2011年1月大崎「夢のイストワール展」O美術館「雪の聖母」出展。「蚊帳教会」ビデオも上映。
2月12日「Invisible flying church」YOU TUBE。「蚊帳教会」の英語版。
4月27日、3月「Rebirth from lovely coffins 」YOU TUBE.
(3月6日、7日、8日に神山で撮影したビデオ。)「再生」というタイトルは3月5日に発表した焦げたバスケットから花が咲くのと麦やキノコが出る作品をすでにつけていた。3.11の予言となる作品。棺桶はボストンで作ったのもので、雪の中でキャンドルに灯をともし、やがて雪に埋もれるものまで縷衣香自身の撮影。
8月、長野「ちょっくら おいらい館」で絵本展示。
12月、高輪、ギャラリー啓祐堂「森の精霊 神山からのメッセージ」展
~ 引用終わり ~
by palty-yuria | 2011-12-19 12:33 | 伝えたい事